>> 2016佐渡国際トライアスロン A-TYPE参戦記 <<
〜 エピローグ 〜
22時。
宿に到着する。
疲れ切った身体をおして、BIKEをスタンドに並べ、部屋へと向かう。
そういえばBIKEラックの空きは意外とまだある。
ゴール会場にいる選手がまだ多いのか、それともB-TYPE参戦の選手が早々に引き揚げたか。
部屋に戻ると、浴衣姿の仲間たちが何人か。
他の仲間は風呂に行ったり晩ご飯を食べたり、それからB-TYPE参戦の何人かは、やはりすでに帰路についたらしい。
逆に、レースを終えた選手がひとり今晩だけ、この相部屋で泊まるらしい。
会場から近い宿のせいか、いろいろと目一杯の、めまぐるしいローテーションがあるようだ。
荷物を降ろし、着替えを準備して風呂。
ただ、あの狭い浴場は混雑していることだろう。
幸い、部屋のユニットバスは誰も使っていなかったので、これを活用することに。
ゆっくり湯舟に浸かりたかったけど、まぁ、、、それは家に帰ってからでいいや。
シャワーでささっと済ませることにする。
ん、なんだ?
おケツの穴が猛烈に痛い。
ぬるま湯でもしみる。。。
普段の練習はもちろん、過去どのロングレースでも、ここまで痛くなることは無かった。
ホント、今回は身体の隅々までの全身全霊を懸けて、制限時間に必死に抗(あらが)ったんだなぁ。。。
22時30分。
晩ご飯がまだ食べられるということだったので、宴会場に赴き、これを少しいただく。
さすがに胃が受け付けないのでその多くを残してしまったけど、こんな遅い時間まで提供してくれるとは。。。
恐縮と、感謝。
と、それまでガラガラだった他の部屋の客人の席も、完走後の余韻を楽しんでから帰ってきたのか、ぞろぞろと入ってきた。
それに合わせて女将さんや従業員さんが料理を持ってきたり、ミニコンロの火を点けたり。
選手たちも「もう解禁」とばかりに、ビールをたくさん頼んでいたり。
一連の応対をする女将さんや従業員さん、その表情もまた、疲れ切っているようだった。
こんな遅くまで料理を提供して、でも大部分がお残しで。
席の食べ終わった食器もほとんど片付いていない。
この後もまだまだこれが続いて、それが終わったら食器を洗って、、、それだけにとどまらず、明日の朝食の仕込みとかもきっと、するんだろうなぁ。。。
部屋の仲間の誰かが言っていた。どうせリピーターにならないだろうから、佐渡の宿のサービスは全体的にあまり良くない、と。
けど、きっとそれは思い違いだろう。
ボクらがレースだけに集中できるよう、部屋の人数を目一杯調整して、大量のBIKEを受け入れて、早朝の弁当を用意して、深夜に及ぶ提供をして。。。
その宿泊費は決して安くはなく、値段だけを判断材料にしてしまえば、たしかに釣り合わないかもしれない。
けど、それ以上の価値を全身全霊で振る舞ってくれている。
だからボクらはせめて、少しでもいいから感謝の気持ちを持ち合わせるのがきっと、望ましいのだろう。
23時。
部屋に戻る。
すでに消灯。
疲労困憊の身体を動かし、少しなりとも荷物を片付ける。
あわよくば、廊下にBIKE分解スペースが空いている今日のうちにこれを済ませようなどとも思っていたけど、その疲れ切った姿を見てか、阿部寛似のおっさんが心配して声を掛けてくれた。
それに応え、適当なところで整理を切り上げ、床(とこ)につく。
23時30分。
就寝。
…疲れ過ぎて、身体が痛くてなかなか、、、寝付けない。。。
浅い眠り。夢と覚醒を繰り返しつつも、ようやく安堵の世界へと消えてゆく。。。
5時45分。
目が醒める。やはり寝付きが悪かったようだ。
疲れ過ぎて眠れない体験は去年の北海道に引き続き、のようだ。
今からまた寝れそうもない。
まぁ、このあと眠くなったら、そのときに寝ればいい。
せっかく早く起きれたので、BIKE梱包へ。
ロビーに出ると、その数は少ないながらも、他の部屋の選手たちも作業をしていた。
また、浴場に往来する姿もある。
もし梱包が早く終わったら、そのあと入ろうかな。
作業をしつつ、他の選手同士の会話が耳に入ってくる。
なんでも今回の完走率は60数%らしい。
ロングでこの低さはあり得へん。だそうな。
きっと熱中症にやられた選手も多かったことだろう。たしかに、コース脇やエイドで倒れ込んでいる姿や、救急車が走る音が何度も聞こえたりしたっけ。
でも、暑いは暑かったけど、BIKEは皆生の経験が活きて、エイドから次のエイドごとにボトル2本ぶんの水を身体に掛けて常に体温上昇を抑える作戦がうまくいったし、RUNも夕刻から夜に掛けての走りだったからか、スポンジの水分を頭から被ったり、脇の下や股関節まわりを意識して冷やすようにした効果もあってか、それなりにうまく制御できた実感がある。
もちろん、各給水や補給食摂取に掛かるタイムロスはあるだろうけど、そのぶん休憩にもなっているハズだから、なんとも言えない。
だからもし気温が例年通りだったら、自分の記録は果たしてどうだっただろう。
やはり、制限時間ギリギリになっていたのだろうか。
いずれにせよ今回は「日本一過酷」というフレーズ、その名の示す通りの闘いになった。
自分にとっての最高峰、最難関はやはりアイアンマンであってほしいという、自らそのブランド価値を見いだそうとしていたけど、結果や疲労感を考えると、やはり今回のレースが最難関という位置付けになったようだ。
もちろん、レースごとに天候や制限時間をはじめ、様々な要因でその体感難易度は大きく左右される。
今回のレースは、持てる力を総動員して、いや、それ以上の力を否が応でも発揮させられ、立ち向かっていった。
だからめいっぱい苦しんだけど、めいっぱい楽しむ余裕は、、、さすがに無かったかな(苦笑
でもそれもひっくるめて全部、本当に、完走できてよかった。。。
BIKEの梱包を済ませ、あとは荷物を詰め込む段階になって、部屋の仲間が声を掛けてくれた。
ちょうど全員揃うから、せっかくだからみんなで朝食を食べよう、と。
そうか、もうそんな時間になったか。
BIKE梱包、朝食、発送手配、閉会式会場への移動、閉会式、両津港までの移動、乗船と、最終日もやることは多いが、スタートが早く切れたおかげで全部うまくいきそうだ。
7時。
朝食。いつものように大量の料理が並ぶ。
やはり、昨晩が遅かったからと言って、仕込みに余念はないようだ。頭が下がる。
量は相変わらず多かったが、昨晩ほどの疲労は無く、おおよそ食べ切ることができた。
部屋の仲間たちと談笑。
RUN道中ですれ違ったイケメンさんは、まだ陽が落ちる前にゴールしたんだそうな。SWIMが得意との事だったけど、波や潮の影響もあって全体的にも遅かった、らしい。そうか、それなら自分のタイムの遅さにも多少納得、かな。でも、ホント危なかった。ずっと気が抜けなかった。どこか一歩掛け違えてたら本当に、間に合わなかったかもしれない。
完走を果たした人、足切りに合った人。。。
皆それぞれの結果を出して、これを受け止めて、また明日からの活力に繋げてゆくのだろう。
しかしそれにしても、アスリートの食欲は凄まじい。おかわりに行列ができている。
その消費量に提供が追い付いていないらしく、女将さんたち、てんやわんや。
みんな、もう少し優しくしてあげてw
そんな自分は、牛乳が美味しかったのでこれを2杯、あと食後にコーヒーをいただいて終わりに。
デザートが来ていなかったけど、満腹だし忙しそうだから、贅沢は言わない。
朝食を済ませ、各自が順次の作業、そして解散してゆく。
自分も最後の詰め込み作業や手荷物の準備を進める。
作業の途中、阿部寛似のおっさんが帰るとのことで、声を掛けられる。
それから、その後の何人かにも解散の挨拶の言葉を交わす。
宮古島の時のような、各人の年齢や距離感が比較的近かった相部屋とは違い、今回は人数も多かったせいか、それほど交流はできなかった。
けど、こうして声を掛け合って解散してゆくのは、なんだかんだで嬉しいものだ。
またいつか、どこかの大会で逢えれば。
8時過ぎ。
ようやく梱包を済ませ、伝票を貼り付けて返送手配完了。
部屋に戻り、片付けをして、少しのんびり。
帰りの足は、初日に利用したシャトルバスで閉会式に行けるほか、この宿自体がマイクロバスを出してくれるとのことだった。
イケメンさんは初日レンタカー、しかし当日のうちに返却して移動手段が無かったので、これは朗報。
自分もこちらを利用し、一緒に行くことにした。
9時の出発少し前にロビーに降りる。
階段がなかなか難儀で、おじいちゃんみたいだ。
って、69歳のじいちゃん選手はスタスタと降りてゆく。
しかもこの後は港まで自走とな。
完走も果たし、記録も自分より早かったようだ。
やっぱ、やる以上はそれくらい出来なきゃなぁ。。。
9時。
マイクロバスに乗り込む。
予想と反してガラガラ。
みんな、自走したりレンタカーを使ったり、シャトルバスを利用したりしたのだろう。
今日も快晴だ。
滞在中はずっと暑かったけど、雨よりはダンゼンましな自分にとってはお天道様への感謝が尽きない。
短い乗車を経て、会場に到着。
運転手にお礼を言って、バスを降りる。
ガヤガヤ。ガヤガヤ。
そこには熱戦を終えた選手たちの、明るい表情が広がっていた。
会場に入る。
その入り口ではリザルト速報が配られていた。
これを受け取り、そのまま大ホールに入って、前のほうの席を確保する。
座って、リザルトを確認。
完走率、62.7%。
じつに3人に2人の完走とは。。。
A-TYPE全出場者990人中、完走621人。
順位は458位。
年代別では35-39歳カテゴリで95人中、57位。
相変わらず「中の下」〜「下の上」あたりだけど、全出場者の中では、だいたい真ん中あたりに入ることができたかな。
制限時間27分前のゴールというギリギリの闘いだったけど、その後も続々と入ってくる選手がいただけに、今回のレースの厳しさを改めて感じる限りだ。
だから今回は完走できて、本当によかった。
けど、いくら環境が酷だったとはいえ、自分よりも早い選手が何百人もいるのも事実。
ましてや、相部屋仲間の69歳のじいちゃんですら、自分よりも順位が高い。
だからこれに満足せず、より高いところを目指さなければ。
まだ閉会式が始まるまで、少し時間があるようだ。
会場を出て、楽しみのひとつ、写真販売のテントに向かう。
ゼッケンを伝え、写真を見せてもらう。
大量の写真の束からゼッケン別に振り分けられた袋を探し出す。
その作業はきっと、徹夜に違いものだったのだろう。
程なくして袋を渡される。
おぉ。。。念願のゴールシーン、頭上にゴールテープを掲げる瞬間を見事、撮ってくれている。
他のレースでは、レース翌日の写真では不思議とこの、イメージ通りのゴールシーンにお目に掛かれず、後日Web販売でこれを見付けて購入する、というパターンが多かったので、こうして早くもその姿を見ることができて、嬉しさもひとしお。
ほか、BIKEやRUNの写真も良い感じだ。
ピックアップされた写真を全部お買い上げ。
ちなみに、もし気に入らない写真があった場合はこれを除外できるけど、皆生はセット販売だった。
もちろん単価は1枚あたり。
けど、だいたいはどれも買ってしまうんだけどw
お次はお土産ブースへ。
お目当ては、大会のロゴや写真がデザインされた記念ボトル版の清酒だ。
清酒自体はあまり得意ではないけど、7年前、B-TYPE参戦時に買ったものがいまだに未開封なので、なんとなくコレクションしたかったので。
ウェルカムパーティで、今年も販売されることは確認済みだったけど、まだ残ってるかな。。。
おっ、あったあった。
まだまだ在庫はありそうだ。
今年はその記念ボトルシリーズに梅酒もラインナップされていた。
ウェルカムパーティでひと口飲んだけど、意外と口に合う。
なのでどちらを買おうか少し迷って、、、
両方買ったw
清酒は7年前と比較して、今回はずいぶんとデカいな。
まぁ、親父が好きだから、近いうちに実家に寄って、おすそわけしよう。
それから酒飲みのツマミ。
佐渡と言えばやはり、海産物だろう。
けど、そのへんのジャンルはわりと苦手の部類。
でもヨメさんが好きなので、ホタテの土産ものをお買い上げ。
ちなみにヨメさん、酒飲みのツマミが好物なわりに、あまり酒を飲まない。
なんか、物凄い不思議な組み合わせの土産になったなw
閉会式の時間も迫ってきたけど、買うものも買えたので、ホールに戻る。
席に戻り、留守番?のイケメンさんに戦利品を報告。
清酒に興味を示していたようだ。
と、後ろの席から声を掛けられる。
あっ。
昨晩、ひと晩だけ同じ部屋に泊まったニイチャンだ。
よく見付けたな。
談笑を少し、、、
そして閉会式が始まった。
公式サイトより拝借
各お偉いさんからのお言葉や総括、それから部門ごとの表彰が進んでゆく。
※再生ボタンをクリックすると動画を再生できます。右クリックでダウンロードも可能です。(23.9MB)
・・・その舞台に上がるには、実力があまりにもかけ離れている。
彼ら彼女らの記録にはとても、叶いそうもない。
けど、本当にアイアンマンハワイ・ワールドチャンピオンシップの夢をクチにするのであれば、今回のようなギリギリの完走ではいつまで経っても辿り着くことは出来ないだろう。
表彰台に立たないまでも、そこに手が届くかもしれない、というレベルくらいにはならなければ、実力でその夢の切符を掴むことは難しいだろう。
遠い雲の上の存在だって?
あの年代別表彰、見てみなよ。
相部屋仲間の、69歳のじいちゃんが5位の舞台に立っているじゃないか。
ダイエットをきっかけにこの世界に飛び込んできたという、その開始年齢は自分よりも遥かに高い。
あの年齢のまだ、半分少々の段階にいる自分にはまだまだ、具体的なチャンスと、それに向けてやるべき事がある。
その記録、SWIMとBIKEは自分が勝っていた。
RUNで大きな差を開けられた。
やはりRUNだ。。。
以前からその事は薄々感じてはいたけど、やっぱり歩いているようではダメだよなぁ。。。
でも、ということはその分、伸びしろがあるわけだ。
じいちゃんに出来て、自分に出来ないわけがない。
遥かな夢の舞台は果てしなく遠く、その道筋の途中に立てるべき目標はこれから探してゆくことになるだろうけど、なんとなく、その指針が見えてきたのかもしれない。
…それぞれの想いを胸に、各カテゴリの表彰が進行してゆく。
盛り上がったのは、やはりB-TYPE最高齢完走者、その年齢はなんと80歳!
小木坂でBIKEを押して歩いていた、最初に出会ったB-TYPEの選手がひょっとしたらこの選手なのかもしれない。
後期高齢者に分類されるこの年代の人たちの多くは、普通に生活することすらままならないのだろう。
けど、自己管理をし、鍛錬を重ねた先にあのような人たちがいるのも確かだ。
その歳まで自分がやっているか、いや、生きているかすら、今は分からないけど、大いなる夢を抱き、そして娘といつか競演できる日を楽しみにする自分にとってこれは、強力な後押しになる。
最後にスコットカップ参加者が全員壇上に上がり、記念撮影をして、表彰式が終わる。
お次は待ちに待った?抽選会とじゃんけん大会。
全員参加かつその賞品が多いぶん、かなり長いこと時間は掛かったけど、これでもかといわんばかりの様々な賞品そしてそれを提供するスポンサーの多さに驚く。
それにしてもその賞品はユニークだ。
土地ならではの生産物、例えばお米や果物は「収穫ができ次第のお届け」なんてものはまだ分かる。
なぜかのルームランナー、これは抽選だったけど、当選者がいないからと、普通は次の人にチャンスが回るところ、なんと「勝手に送り付けておきます」だそうな。
家に帰って、忘れた頃に突然こんなデカいものが送られてきたら、さぞかし驚くだろうなw
しばし続く抽選、その賞品は比較的大きいものが多い。
しかし、すでにその当選者が帰ったためか、名乗り出てこないこともしばしば。…もしや、名乗り出なければ発送してくれる法則に気付いたのか、「あえてここで受け取らずに送ってもらおう作戦」をしているのかもしれないw
最後のじゃんけん大会、その賞品も豪華なものが多かったけど、自分はじゃんけんがとことん弱く、たいてい1〜2回戦ですぐに負けてしまう。
しかも、隣のイケメンさんもだいたい、同じタイミングで負けているw
でもレースでは自分に克(か)てたから、まぁいいか。
帰りの船と、それに接続するバスの時間が迫る。
楽しい時間は終わり、また来年の参加を呼び掛けて、、、
すべてのプログラムが終了した。
会場を出て、イケメンさんと最後の挨拶と握手を交わし、そして解散する。
11時10分。
シャトルバスに乗り、両津港へ向かう。
それまで撮影したデジカメ写真を眺めているうち、ウトウトしてきて、、、
しばらくバスに揺られ、そして停まる。
11時50分。
どうやら港に着いたようだ。
お礼を言って、バスを降りる。
エスカレーターを登って、お土産ロードへ。
特に買うものは無く、土産品を眺めつつ、その先へ。
船の改札付近は、やや混雑。
改札から延びる人たちと、順番確保の荷物。
ざこ寝エリアの確保のためだろうか。
レース関係者だけでなく、通常の観光客の姿も多く目にする。
今日、月曜日の平日とはいえ、観光地はこんな感じなのかな。
なんてことを考えつつもとりあえず、自分も荷物を置いて、、、
少し腹ごしらえをしておくか。
7年前に食べたそば屋は健在。
あの時は海藻そばを食べたけど、今年はそれをレース前日の下見の際に食べたから、岩のりラーメンなるものにしてみる。
狭い店内、座れはしたものの、やや混雑。
少し待って、へいラーメンお待ちぃ。
改札がそろそろ開くようなアナウンスを聞いたので、手早くこれを平らげる。
荷物の場所に戻ったちょうどそのタイミングで改札が開いた。
順番に沿って、ぞろぞろと進む。
改札を抜けた客たちは急ぎ足で先に進んでゆく。そんなにスペースを確保したいかw
乗船の際、紙テープを配るスタッフの姿を目にする。
そしてそれを受け取ろうと群がるオバチャンたち。
なんでも、出航のセレモニーをやるんだとな。
TVとかで見たことがあるな。
荷物を置いたら、あとで見にいってみよう。
ざこ寝エリアは早くも埋まっている。
そして「ここはオレ様の陣地だ」と主張するかのように寝転がるオッサンたちを多く目にする。
適当なスペースを見つけ、とりあえず荷物を置いて、そこに座る。
そして間もなく出航の時間。
艦内アナウンスが流れる。
この便限定の、出航のセレモニー。
というわけでデッキに出てみる。
おぉ、TVで見たようなシーンだ。
色とりどりの紙テープが何十本も、船側と地上側とで繋がっている。
そして、、、出航。
動き出す船。
途切れてゆく紙テープ。
大漁旗を振る地上側のスタッフたち。
手を振る人たち。
別れが名残惜しくも、その紙テープが切れてゆくかのごとく、島が少しずつ遠ざかってゆく。
いつまでも手を振る、島側のスタッフたち。
なびく大漁旗。
飛来する、何十羽ものカモメ。
※再生ボタンをクリックすると動画を再生できます。右クリックでダウンロードも可能です。(32.8MB)
次第に小さくなってゆく港。
波をかき分け、速度を上げる船。
7年前に見た光景。
あの時と同じ景色が、時を超え、大海原に広がる。
戻ってきた。
走りきった。
やり遂げた。。。
7年間の様々な想い出が次々に浮かび上がっては、波とともに過ぎ去ってゆく。。。
ありがとう、佐渡。
13時10分。
新潟港到着。
乗船中、スマホに書き進めていた今回の参戦記メモ作業も、いつしか眠気に誘われていたようだ。
乗客が足早に降りてゆく。
お目当は、この10分後に出発するバスのようだ。
新潟駅に向かう路線バス。
客の多さをあらかじめ想定してか、臨時便もスタンバイ。
この後の予定は、17時23分の新幹線に乗ることだけだ。
だからべつにこれに乗る必要は必ずしも無かったけど、群衆の波に流され、あれよあれよでバスに乗り込むことに。
満員の狭い車内、そのバスが新潟駅へ向かって走り出す。
20分ほどで終点に到着。
足早に駅に向かってゆく客の流れから抜けて、駅ビルや周辺の街並みをぶらぶらすることに。
新幹線の時間は、予約段階で比較的その選択肢は多かった。
けど、あえて遅めの時間を選んだのは、ほとんど来る機会の無い新潟駅周辺を歩いてみようという動機ゆえだ。
参考までに、指定席の予約状況を示す電光掲示板を確認してみる。
おや、予想に反して、どの時間の列車も余裕がある。
まぁ、べつに早い時間に変更してまで、さっさと帰ることもないかな。
駅ビルをぶらぶらしているうちに、ご当地ソフトクリーム屋らしき店があったので、迷わずイートインw
それから駅の周りをダラダラ歩く。
…ものの、主要駅の周りだからか、意外と何も無い。
少し離れればひよっとすると観光できる所もあるかもしれないけど、そこまでする時間は無さそうだ。
それにしても、さすがに疲れたな。。。
歩くペースがこの上なく遅い。
今日に続いて明日も有給を取っている。
当初はべつに出勤でもいいかなと思っていたけど、この疲労感。
休みにしておいてよかった。
しばし、まったりした時間を過ごしたのち、そろそろホームに行く頃合いに。
ビールとお菓子を買って、改札を通り、ホームに上がって、新幹線を待つ。
その感覚、なんだかスノボ帰りのようだ。
真逆の季節に想いを馳せつつ、列車の到着を待つ。
程なくして、新幹線が入ってくる。
車内に乗り込む。
平日、月曜日の夕方だからか、席はガラガラ。
大半の乗客はビジネスマン、それから大きな旅行カバンを持つ観光客だ。
列車が動き出す。
長い旅路の、終わりを迎える。
その停車駅、往路は東京〜大宮〜新潟という、ほぼ直行列車だったけど、帰りは新幹線停車駅の全てに停まる、各駅停車だ。
けど、急ぐわけでもなし、明日も有給を取ってるし。
今回の参戦記でも書きつつ、のんびり行けばいいさ。
もう、時間に追われる必要は、無いのだから。
明確なきっかけは覚えていない。
学生時代、自転車競技部に所属するかたわら、その練習嫌いの反動からか、学生生活も終わりを意識し始めた頃、その“やり残し感”が自分に何かを探させた。
そして、巡り巡ってこのトライアスロンという世界に辿り着き、その体験を少しずつ広げていくことになった。
当時はまだ51.5kmのレースくらいしか走れなかったけど、あの時たまたま見た専門誌に掲載された2枚の写真が脳裏に強烈に焼き付き、20年近く経った今でもそれが原動力のひとつになっている。
「死ぬまでにロングディスタンスレースを完走する。」
社会人になって、メンタル的にもいろいろ辛いことがあったけど、その流れの中で「片っ端からやりたい事を挙げて、出来そうなものから叶えてみよう」なんて軽い気持ちでリストアップしまくった中に、こんなキャッチフレーズが入っていた。
もちろんそれは当時の自分にとっては遥か雲の上の存在で、ロングはおろか、フルマラソンすら走ったことが無い、という程度の実力しか持ち合わせていない程度の、ホントにただの夢物語に過ぎなかった。
けど、2005年。
「ロングを走るためにはフルマラソンが走れなければならない」という想いから、巡り巡って目指すことになったホノルルマラソン。
そして奇遇にも、旅行会社の企画する練習会のコーチとして指導してくれた一人が、ロングレースの第一線で活躍する選手たちのオフィシャルトレーナーだった、という巡り合わせを果たす。
直接指導を受けるようなことはその後は一切無かったけど、何か運命的な繋がりを感じずにはいられなかった。
数年のブランクを経た2007年、久々のBIKEトレーニングの再開そして昭和記念公園、25.75kmのスプリントディスタンスに参戦。
ようやくトライアスロンの世界に戻ってきた。
続けざまの翌年、2008年も参加した昭和記念公園、しかしこれに飽き足らず、茨城県の51.5kmレースに参戦。
トレーニングの成果も出たようで、同距離の学生時代の記録をわずかながら更新。
2009年、埼玉ミドルディスタンス。
制限時間わずか8分前ながら辛うじてこれを完走。長距離レースへの手応えを感じることとなる。
そしてその翌月、佐渡B-TYPEに参戦、同じくミドルディスタンスを完走。
運命の歯車が動き出したのはここからだった。
自分のB-TYPEゴール後も、これからフルマラソンに向けて次々に走ってゆくA-TYPEの選手たちの姿。
そして夕方〜夜に掛けてゴールする選手たちの姿。
まだ、ただの夢物語の範疇に過ぎなかったロングディスタンスの世界が自分の目の前で繰り広げられるという、その強烈な体験は、その後の自分を強力に後押しする基幹となり、いよいよもってロングへの挑戦の地力を固めてゆく。
2010年。
ついにその最初のステージ、宮古島大会への挑戦権を獲得する。
佐渡B-TYPE完走後の凄まじい練習量と質。これを続ければきっと完走できるはず。
そう意気込んで冬の練習にも力を入れた。
が、それが仇になったのか、それともそれまでの疲労の蓄積が爆発したのか、右ヒザ裏に発生した違和感はやがて、マトモに歩けないほどに身体を蝕んでゆく。
懸命のリハビリを重ねた結果、辛うじて間に合ったレース本番は、終盤まで予断の許さない展開が続いたが、無事これを完走、ついに長年の夢を果たすことになる。
完走後しばらくの期間は「やりきった感」に満たされていたけど、日が経つにつれ、徐々に更なるステージへの挑戦を意識するようになる。
麓(ふもと)から見上げていた光景と、その頂(いただき)から見える景色は、レース前のそれとは明らかに異なる、広大な世界が広がっていた。
それと共に、生涯目標はいつしか「国内4大大会の全制覇」というフレーズをクチにするほどのモノに膨れ上がっていったが、しかしその“自分的目標達成難易度”は宮古島前に抱いたものとは異なり、実現の可能性が充分の、現実的なレベルに引き寄せたような実感があった。
2012年、長崎大会。
宮古島がアイアンマンディスタンスより短かったせいか、本当の意味での「ロングレース」の完走はまだ果たせていないという意識もあり、これが真のロングディスタンスに挑む最初の闘いとなった。
終始のBIKEアップダウンに苦しめられたが、梅雨時期にも関わらず雨はほとんど降らずに済んでくれたおかげもあり、無事これを完走。
また今回はカノジョさんを連れて来ていたので、念願の同伴フィニッシュも果たすことができた。
そしてその日の晩、市役所に赴いて婚姻届を提出。
語呂合わせも何も無い日だが、毎年この日は忘れ得ぬ結婚記念日となった。
2013年。
待望の子どもが産まれるも、その多忙さからこの年はレースには出なかったが、その合間に時間を見つけては、第3のステージに向けた鍛錬を少しずつ重ねてゆくことは怠らなかった。
そして翌年の2014年、皆生にエントリー。
が、今度は仕事がとんでもなく忙しくなってしまい、練習はおろか、当日中に帰宅すら出来ぬ日もあるほどの状況に陥ってしまう。
多い月で、その残業時間:129時間は現時点での最高記録。
けど、そんな記録はどうでもいい。とにかく、マトモに練習出来ぬまま残された日々がどんどん減ってゆくことに、不安と焦りを募らせるばかりだった。
レース約2ヶ月前の頃合いでようやく落ち着いてきたが、ロングに挑むための練習量が圧倒的に足りない。
ただ幸いにも皆生はBIKE距離がロングレースの中でも最も短い145kmということもあり、「なんとかなるだろう」というレベルまで取り戻す。
そしてレース本番。
例年よりもやや穏やかな気候にも恵まれ、RUNはかなり歩いたが、無事完走。
準備不足から感じたレースへの物足りなさ、「やりきった感」の達成度合いは低めだったものの、転んでもタダでは起きない。
その物足りなさの想いが巡りに巡ったその果て。
何が自分を心底満足させるのか。
行き着いた答え、それは畏れ多くも、アイアンマンハワイ・ワールドチャンピオンシップにその終着地点を見出すことになる。
果てしなく壮大な、いや、果てしなく無謀な夢を抱きつつ。
2010年以降中止となっていたアイアンマン「ジャパン」は幸いにも北海道に舞台を移して復活。これに次なる照準を定める。
2015年。
満を持して、アイアンマン参戦。
BIKEコースに設定された橋の崩落の影響により、レースわずか3週間前に発表された、圧倒的なヒルクライムへのコース変更。
獲得標高2,355mという難関は、長崎「バラモンキング」完走以降、渇望せし「アイアンマン」の称号獲得への挑戦にふさわしい舞台となった。
強烈な登坂とその後のアップダウン、そして寒さと漆黒のRUNに苦しめられながらも、17時間という制限時間の長さにも助けられ、ついに念願の称号獲得を果たす。
残念ながらアイアンマンレースの規約によりヨメさんと娘との同伴フィニッシュは叶わなかったが、ついに5大会中4大会までを制覇する事となる。
そして、、、
奇しくもロングレースへの熱い想いが燃え上がるきっかけとなった佐渡大会。
その「はじまりの地」に、5大大会の全制覇に王手を掛けて、再びここに還りつく。
完走率62.7%は確かに例年と比べれば厳しかったのかもしれない。
様々な要因に恵まれた運の要素もあるだろう。
けど、晴れ舞台に向けた日頃の準備を怠らない事こそが、いざ“その時”を迎えた時、たとえそこにどんな困難が待ち構えていようともこれを乗り越え、すべての実力を発揮しきるための絶対条件なのだろう。
だから「運も実力のうち」という言葉はきっと、準備を地道に重ねた者へのご褒美のようなものだと…思うのだ。
道のりは長く、苦しく、険しかった。
しかし、振り返ってみればそれはまさしく、自分の成長物語そのものだった。
諦めないこと、己に打ち克つこと、夢を追い求めること、目標を更なる高みへと昇華してゆくこと。
そして何よりも、鍛錬を積み重ね続けること。
その過程で実感する成長への喜び、そして取り組む姿勢や練習そのものさえも楽しむことの出来る、精神的安定性。
その先に待っている晴れの舞台、夢の実現。
大丈夫。すべてはきっと、うまくいく。
物語はこの先もまだまだ続いている。
今はそのページは白紙だけど、すでにその下書きは出来ている。
自分と家族を大切にし、仕事をこなし、鍛錬を重ね、いつかきっと娘との競演を果たす。
そしてきっと、アイアンマンハワイ・ワールドチャンピオンシップの舞台に立つ。
時に、男39歳。
実に充実した30代だった。
そしていよいよ迎える激戦区、40代。
体力のピークはとうに過ぎている。けど、年齢層が一番厚いのも40代だ。
だから、これからどこまでやれるか、どれだけやれるかは未知数だけど、大丈夫。きっと大丈夫。
どんな困難が立ちはだかっても、それを乗り越えられる事を、他ならぬ自分自身が一番よく知っている。
その道のりは果てしなく長く、想像すら適わぬ数多くの困難に苦しめられることだろう。
けど、そんな過程すらも楽しみながら、その先に広がる夢の世界を目指し、ただひたすらに突き進んでゆく。
これは、夢の舞台に立つその日に至るまでの、数々の奮闘を綴った生涯の物語である。
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